斜め読みの功罪
(1997, 井上雅彦)
先日あるテレビ番組で見たのだが、最近巷の図書館では種々の事情により受験生の 利用をかなり制限しているらしい。図書館を追い出された受験生達は なんとファーストフードの店で勉強しているという。番組のテーマはそのようなまわりの 騒がしい環境で集中して勉強できるのだろうかということであった。 実験に参加したのは50代前半のお父さんと男子高校生。 二人に簡単な数字の足し算を一定時間内にいくつできるかというテストを 行ってもらい、それを騒音を流したときと流さないときとで比較を行った。 結果は、お父さんの方は騒音を流した場合明かな計算能率の低下が見られ たのに対し、高校生の方はほとんど能率の変化は見られなかった。
この結果に対する番組の結論は次のようなものであった。 現代は情報過多の時代である。情報の洪水の中で我々は意味の無い情報を捨て、 自分に必要な情報をすかさず取り込まなくてはならない。情報化時代に適応した若者達には この情報の取捨選択能力が自然にに身についており、騒がしい環境の 中でも意味の無い騒音情報をカットして捨て去り、集中できるのではないかというのである。ところで一口に情報といっても、音、光、画像、文字などあるわけだが、 限られた時間内で大量の文章の主旨やキーワードを読み取る方法に斜め読みというのがある。 斜め読みをしているときに人間の脳はどのような処理を行っているのか 私にはよくわからないが、おそらく本当の意味で斜め読みのできる コンピュータというのは当分の間できないのではないだろうか。 とにかくこの斜め読みという能力のおかげで人は文字の洪水の中で 必要な情報を選択できるわけである。 ただし注意しなければならないことがある。情報を捨てる判断条件として、 あまり重要でない ということの他にわかりにくいとかめんどくさい という条件が入ってしまう ことである。たとえば教科書を読む時、 情報化時代にすっかり適応してしまっているあなたは ごちゃごちゃしたところとか数式が並んでいる ところを一気に読み飛ばしてはいないだろうか? 残念なことに教科書という物はそういう所を飛ばしてしまうと 余計にわからなくなってしまう物なのである。
ではどうすれば情報を捨てることになれてしまった頭に情報を 強制的にインプットできるだろうか。中国の古い諺に読書百遍義自ずから通ずというのがある。これはどのような むずかしい書物文章でも何回も読めば自然に意味がはっきりしてくるという意味である。 私流に解釈すると、何回も読んでいると同じ文章に厭きてきてそれまで読み飛ばしていた部分も 真面目に読むようになるためにある時突然ふっと文章の意味がわかってしまうということである、 と言ってしまうのは言いすぎかもしれないが確かにこの手法は使える。
もう一つお勧めは書写である。読み飛ばしてしまいがちな数式の部分を ノートに4〜5回程書き写してみよう。これにより目から入った情報は指先に伝わるまでに 脳の中で一次的に蓄えられ変換される。つまり無意味に捨てられていないということである。 だまされたと思って暗記するまで書いてみなさい。10回に2回はうまくいくから。 理解できないのではない。読み取ろうとしていないだけなのである。